視覚障害者柔道〝銀メダリスト〟廣瀬誠さん
〜3人の女の子のパパ。 家族とともに人生を楽しみ、強くなることに挑戦し続ける〜

特集記事

 愛知県西尾市出身の柔道家である廣瀬誠さん。愛知県立名古屋盲学校の教員をしながら、柔道を続けるかたわら、現在は柔術で世界を目指しています。突然おとずれた視覚障害……柔道に支えられ、苦悩を乗り越え、人と繋がり、メダリストに。他ではなかなか聞けない、これまでのこと、子育てのこと、また、これからの夢について独占取材しました。

〝消極的な選択〟で出会った柔道

もともと運動は好きだったけど〝運動神経がいい〟というわけではなく〝良くて中の上〟と廣瀬さん。中学校では、友人の誘いでバレーボール部に所属していましいた。嫌で嫌で仕方なかったが、部活の後に遊ぶのを楽しみに続けてきました。そして、高校に入り、新たな部活を選ぶ時がきました。〝球技でなく、団体競技でないもの〟……陸上や水泳はメジャーなので却下。そうすると武道……しかし、弓道は地味だし、剣道は防具が苦手……残すは柔道。たまたま、中学の頃のバレーボール部の先輩(補欠だった)が、黒帯を取って楽しそうにしてる姿を見て、「俺でも出来るなっ」と、〝消極的な選択〟で「柔道」を選びました。

〝消極的な選択〟が運命の分かれ道。結果、やったら面白かったと廣瀬さん。どんどん柔道にのめり込んでいきました。そして、高校二年の時、突然、視力が日に日に落ち始めます。最初は近所の眼科に、すぐに市民病院へ行き、そのまま入院に。その時は病名は分かりませんでした。炎症を抑える治療をしたり、対処的な治療を続けました。約2ヶ月で、2.0あった視力が0.01に……。「入院している間は治ると思っていました。治らない病気になったことがなかったし、今の医学で治らない病気に自分がかかると思ってなくて……」と廣瀬さん。両親が診察室から出てきたとき、母親は涙ぐみ、当時反抗期で反発していた父親もおろおろしてる様子から、「ああ、治らないのだな……」と、その時にわかったそうです。後に「レーベル病」とわかりました。高校三年生になって、まわりが大学受験に向かう中、運動制限はとくになかったので、部活に参加し柔道を続けていました。……とにかく柔道を続けられることが支えでした。

● 廣瀬さんの解説
人の視野を円とすると、視野の真ん中だけがごそっとやられています。目の視細胞は大きく2種類、錐体細胞と桿体細胞があり、真ん中にあるのが錐体細胞で、その錐体細胞が炎症し、真ん中だけがぼやけて見えなくなっています。外観はなんとなくわかります。この病気は、疫学的には10万人に1人といわれています。

田代道場で取材を受ける廣瀬さん

猛勉強で〝選択肢〟を1から2に

高校卒業後は、按摩マッサージ・鍼灸の免許を取るため、岡崎市の盲学校へ。寄宿舎での一人暮らしが始まりました。他に選択肢はあったようですが、当時は情報があまりなかったので、それが一番メジャーな選択。この3年間が一番不安で精神的にも辛い時期だったそうです。

「どうしよう、これから俺どうなっちゃうんだろう、障害者か……」しばらくは自分が障害を受け入れることができませんでした。同時に〝この先の仕事〟は、自分が選びとって就く職業ではない、障害者だから……それしか選択がないことが最も辛いことでした。精神的に辛い中、柔道を通じて解剖学や生理学、身体の仕組みに興味があった廣瀬さん、寄宿舎での生活の中で食事やお風呂、睡眠以外はひたすら勉強に励んだそうです。

盲学校時代に猛勉強したのにはもう一つの理由がありました。勉強をすれば、「教員」という選択肢ができること。教員になりたい訳でなく、選択肢が1つから2つになることで、自分で選べることが大きかったそうです。そして、盲学校卒業後、筑波大学理療科教員養成施設(東京)へ進みます。

盲学校・筑波大学時代はひたすら柔道も励みます。盲学校の近くに岡崎高校があり、参加できる時には出稽古に行き、週末、実家に帰る途中に実業団(東レ)で練習をしました。この時の練習は健常者の人たちのと稽古で、相手に先に組ませてから組むスタイル。この頃に、視覚障害者柔道に出会い、大会にも出場します。

田代道場で練習をする廣瀬さん

〝普通の柔道〟は競技人口が多く、底辺が大きくて頂点は高い所にあるけど、視覚障害者柔道は人口が少ないので、頂点が低いと廣瀬さん。1回目の出場(学生の部)で優勝……。2回目からは、一般・学生合同の部で出場し、10年以上ずっと優勝……。「優勝してすごいねっ」といわれても、正直、喜べなかったそうです。なぜなら、実業団では健常者の人に投げられてしまうから……。大会の成績が良くても自分の心が納得いきませんでした。「当時は、自己肯定感が低かった。逆に、〝普通の柔道〟との比較で、奢ることなく続けることができた。」と廣瀬さん。柔道が好き、障害に関係なく強くなりたい!……その想いは、柔道に出会ってから、今でも続いています。

大学で教員免許を取得しましたが、卒業後、治療院で働くことを選択した廣瀬さん。なぜなら、按摩マッサージ・鍼灸の道を選択していない自分が教員になり「按摩マッサージ・鍼灸はすばらしい仕事です」と、生徒に勧められるはずがなかったからです。まずは働いてみて、自分が本当に好きになれなかったら、教員の道を目指すことはやめようとも思っていたそうです。そして、働いていく中で、患者さんが良くなっていったり、「ありがとう」と感謝されたり……。「人と繋がれる良い仕事だな…」と思うようになり、仕事を続けました。

人との繋がりから生まれた〝転機〟

地元の恩師の知人から、盲学校の教員に空きが出ていることを聞き、早速、採用試験を受け、2004年に愛知県立名古屋盲学校(名古屋市)の教員になり、愛知県に戻ってきました。2004年はアテネの年。教員と柔道の両立が始まります。しかし、すんなりとはいきませんでした……。教員になりたての4月・5月はものすごく忙しく、慣れない仕事に追われ、柔道との両立がとても難しかったそうです。代表として、柔道に専念したい気持ち、教員の仕事の手を抜きたくない気持ち、葛藤が続きました。

しかし、まわりの同じ境遇の人たちの〝応援の声〟で気持ちが変わりはじめました。「障害者でも、仕事もやりながら柔道の練習もやってるっていうのは、同じ障害者として励みになる…」。そう思えるようになると気が楽になり、割り切って両立を目指します。そして、新しい生活の中でむかえた9月のアテネ。結果は銀メダル!「もっと練習してれば結果は違ったのかもしれないけど、自分の出来る範囲で最前を尽くせたかなと」と廣瀬さん。

2016年リオにて。銀メダルを首からさげ、盲学校の応援幕を広げる廣瀬さん

写真:2016年リオにて(2004年アテネ:銀/2008年北京:7位/2012年ロンドン:5位/2016年リオ:銀)

結婚……そして、3人の女の子のパパに

奥さまとの出会いは盲学校で。奥さまは音楽の教員でした。アテネの年の年末の食事会で意気投合。そこから約1年半のお付合いを経て2006年に入籍、2007年に結婚。その後、2010年に長女、2012年に次女、2014年に三女……3人の女の子のパパになりました。

廣瀬さんの子育てのモットーは「一度しかない人生だから、どうせだったら楽しもう!」。そこには〝4つの柱〟があります。「自己肯定感」「好きなことをみつけて一生懸命やる」「感謝の気持ち」「自分で決める」。言葉では伝えきれないこの〝4つの柱〟を、廣瀬さんは自分自身の生き方をもって子どもたちに伝えたいといいます。

廣瀬さんが講演や授業の際に使うヘレン・ケラーの言葉で「障害は不便だけど不幸ではありません」という言葉があります。「やっぱり最初は不便だし、不幸だと思っていました。ですが、柔道を通して出会えた人たちがいて、色々な価値観をくれました。不便だけど助けてくれる人はいて、感謝の気持ちを大切にしてきたからこそ、教員ができ、パラリンピックも経験できた」「不便は不便だけど、それを超えて自分は不幸じゃないなと思えるようになった。今でも不便なことは多いし、それでへこむこともあるけど、トータルしてプラマイでいったらプラスだなって思える」

「目が悪いって一見マイナスにも見えるけど、それも不便だけど不幸じゃないって思えることは考え方次第。たまたま僕は目が悪いけど、ひょっとしたら足が悪い人いるかもしれないし、他の障害があるかもしれない。障害がなくても自分の自信のなさっていうのもあるかもしれない。自分の考え方次第で変えることができる。裏返せば不便なことも武器になる。弱みっていうのもひっくり返すと強みになる。」……自身と向き合い、柔道に打ち込み、人との繋がりを大切にし、自らが切り開いた道を歩み続ける廣瀬さん。その姿は、家族だけにとどまらず、まわりの人の心まで動かします。

オフの日に取材にこたえる廣瀬さん

できること・したいことはトコトン!そして、子どもとの時間を大切に

「〝普通のお父さん〟のように車の運転はできないけど、一人でできること、頑張ればできることは自分でします。」と廣瀬さん。時には、書類の確認に20〜30分かかったりもしますが、重い買い物袋を運んだり、子どもが自転車の練習をしたいと言ったら、猛暑の中でも公園に出かけたり……。どうしてもできないことは奥さまに頼るため、自分ができることは積極的にやるそうです。

家族の中で廣瀬さんの役割も沢山あります。まずは朝ごはんの用意。パンを焼いて一緒に食べます。そして、夜、子ども3人と一緒に4人でお風呂に入ります。「今日は何があった?」など、話しながら……。その間に奥さまがご飯の準備です。洗濯物の取り込みも廣瀬さんの役割。そして、最後に子どもたちの寝かしつけ。絵本の読み聞かせはできないので、「リーディングブック」でグリム童話やアンデルセン童話、日本昔話などを事前に読んで(聞いて)覚えて話し聞かせをします。

そして、廣瀬さんも子どもたちも楽しみにしているのが「子どもとの二人旅」。誕生日の前後に、その子だけのお祝いとして、1泊2日で子どもの行きたいところへ行きます。全て子どもの意思を尊重し、目一杯楽しみます。食事も子どものリクエストに応えるので、夕食がハンバーガーになったり、コンビニのサンドイッチになることも……。「子どもが思春期になって、父親が障害者だって思ったとき、色々感じるところがあるんじゃないかなって……。目は悪いけどなんでもできるぞ!一緒に楽しんでるぞ!と行動で示したいし、そういう思い出をつくっておきたい。」と廣瀬さん。この旅には、〝4つの柱〟がギッシリ詰まっています。

廣瀬さんと子どもの二人旅のスナップ

障害者スポーツ・障害者理解が進む社会に……まずは、子どもたちから

現在は現役を引退している廣瀬さんですが、柔道は続けており、さらに柔術もしています。柔術は2012年のロンドン後から。「やっぱり、自分自身がもっと楽しまないと!」と廣瀬さん。柔術により、自分自身の柔道のレベルを上げ、視覚障害者柔道を広め、視覚障害者柔道の可能性に挑戦したいと廣瀬さん。

柔術では健常者の大会に出ていてすべて優勝!「視覚障害者柔道の廣瀬って強いな!障害者のスポーツだけど視覚障害者柔道って強いんだな!パラリンピックの柔道見てみたいな!っていう人が増えたり、普及にもなる。自己肯定感も高められるから、柔術がすごい面白い」と廣瀬さん。

そして、これからの目標は、障害者スポーツの普及や啓発。障害者スポーツを窓口にした障害者理解をすすめていきたいと廣瀬さん。「少子高齢化の中、いつか目が悪くなる、耳が悪くなる、膝が痛い、腰が痛いとか……どこか不便が出てくることがあります。障害者が住みやすい社会は、高齢者が住みやすい社会で、障害者理解が進むことは、みんなが住みやすい社会になると僕は思っています」「大人を変えるっていうより、子どもたちの考え方、障害者ってこういうことをやれば、普通に一緒に生活できるっていう感覚を持ってもらうことが障害者理解の近道かなって……」。子どもとの二人旅を続ける中で、自分の子どもが理解し、変わっていく姿に特に感じるそうです。

障害を乗り越え、強みに。人生を楽しみ、世界を広げていく廣瀬さん。……まだまだ挑戦は続きます。

廣瀬さんが通う田代道場(名古屋市千種区)のみなさん

写真:廣瀬さんが通う田代道場(名古屋市千種区)のみなさん

 

★ あとがき

読書家でもある廣瀬さん。月に40冊くらい読む(聞く)そうです。通常のスピードの2倍・3倍くらいで聞くことができるそうです(早送りくらい!)。また、パソコンも音声で検索し、読み上げソフトを使い、エクセルやワードも使いこなす……。スマホも使いこなし、LINEも音声入力で使う。いまではフェイスブックで沢山の人との交流も。……圧倒的なパワーと志にただただ驚かされるばかりでした。同時に、これまで知らなかった視覚障害にたいする理解が少し深まった取材でした。名古屋ベビータイムズはこれからも廣瀬さんの活躍を応援します!

リーディングブックを読む廣瀬さん

★ DATA

廣瀬 誠(Facebookページ)
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